みやこ町デジタルミュージアム

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  • 2021/05/21

    日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(3)

    先日来、日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介していますが、3つ目のゆかりの品は、夏目漱石著「木屑録(ぼくせつろく)」です。

     

     5月20日の稿に、漱石の友人にして近代俳句の父・正岡子規のことが紹介されていますが、子規と漱石は一高(東大の前身校)の同窓で、落語を介して意気投合。深い交友を結ぶうち明治22(1889)年の5月から9月にかけ、互いの創作を交換しました。まず子規が七種の文体からなる『七草集』を著したのに対し、漱石は夏休みの房総旅行を漢詩で綴った紀行文『木屑録(ぼくせつろく)』を著して子規へ献呈。批評好きの子規はこれに評論や添削を加えて返却、評の中で漱石を「千万年に一人の逸材」とほめちぎり互いの文才を認め合いました

     実物の木屑録は、二つ折りの半紙を綴っただけの何の変哲もない墨蹟のつづり(のちに漱石門下・小宮豊隆が折本表装した)ですが、二人の天才が誌上でエール交換したという、近代日本文学史上記念すべき作品とされています。
     なお、最近判明したユニークなご縁話として、木屑録に登場する漱石に同行した旅行者に、みやこ町出身者のいたことが判明しました。その人物は川関治恕といい、旧豊津藩士子弟で慶応義塾に在籍、何かの縁で漱石と房総旅行をすることになったようです。しかし作中で漱石が述べているように、川関たちの旅は放蕩三昧で風流韻事を解するものは皆無。漱石は鼻白む思いだったようで、その後深い友情を結ぶには至らなかったようです。

     しかし川関は漱石のために、貴重な証言を残しました。旅行先の鋸山(千葉県鋸南町)は東京周辺では奇岩怪峯の絶景として知られるものの「なぁに、俺の里の豊前耶馬渓の方がスケールはでかい(羅漢様の数は負けるがね)」と述べたことから、後年漱石が熊本へ赴任の際、休暇中に耶馬渓旅行をしたのはこのことが発端だった可能性があるのです(以上は千葉県在住の漱石研究者・上杉伸夫氏からの情報を参考にさせて頂きました。この場を借りてお礼申上げます)。

     このように日本近代文学のフロンティアとなった二人の共著ともいえる作品の創作に、みやこ町出身者が関わっていたという事実に不思議なご縁を感じます。

     ちなみに「木屑録」は当館小宮豊隆記念展示室のメイン資料です。館へお越しの際はお見逃しなく…。

  • 2021/05/20

    日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(2)

     先日から日本経済新聞掲載の伊集院静氏の小説「ミチクサ先生」の連載が、当館所蔵資料にゆかりの内容となってきたため、小説を楽しむよすがに該当資料とその概説を紹介させて頂いています。


     今日のゆかりの品は「夏目漱石発 小宮豊隆宛書簡(明治39[1906]年8月28日)」です。

     小説は現在『吾輩ハ猫デアル(以下「猫」)』が爆発的にヒットとしたことで、自らの才能への気付きと進むべき道に迷う漱石が描かれていますが、リアルライフにおいてもそのことを本人が、ユーモアを交えて門弟・小宮豊隆宛に告白している手紙がこれです。

     注目は何といっても本人自筆の「猫姿の自画像」です。実際には大阪滑稽新聞に「大ヒット小説『猫』を書く小説家は、タイトルからするとこんな御仁だろう」と当該新聞社がおふざけで制作・掲載したイラストだったのですが、これを見た漱石の講義を受講する関西出身の学生が、絵を切り抜いて漱石に送ったものを、本人がいたく気にいって模写し、これを小宮宛の手紙に書き添えたのです。

     多分漱石は「これが僕の姿だってさ。笑っちゃうよなハハ、小宮君!なかなかよくできてるから君にも見せてあげるよ!」と素直にユーモアを受け取りつつ、門弟の中ではまだ引っ込み思案で「奥手」だった小宮を励ます気持ちで描いたようにも思えます。

     真相はともかく漱石が複写とはいえ、こんなにユーモアたっぷりでシンプルな自画像を描いたのは生涯唯一のようであり、貴重な自画像となっています。

     当館ではこの手紙を常設公開資料として展示していますので、コロナ禍が落ち着いたら(現在残念ながら5月末まで臨時休館中!)ご覧にお越しになりませんか?あなたもこれを見て「クスリ」とやって、ストレスの多い昨今の「薬」にしては如何でしょう…。

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